いきなりだけど、認知症についての霊的角度からの個人的考察を書いてみた。

さて、突然だけれども、ブログ初開設にも関わらず、自己紹介もせずに認知症に対して考えているメカニズムなどを最初に書いてみようと思う。理由は簡単。現在、認知症の人のケアをしている、あるいは将来の自分の認知症への可能性に対し、少しの不安を持つ方などにその対処法として読んで欲しいものがあるからである。それでは早速だが、その認知症のメカニズムについて書いてみたいと思う。

 

人はなぜ認知症になるのか??

 

おそらく、当ブログにお越しの方においては、そのほとんどがこの疑問を抱えていらっしゃることと思う。それは私も同然で、なんで人生の最後あたりで人の記憶が薄らいだり、人格変貌による障害が出てくるのか、私個人としては自分の母親にその症状の兆候が見つかり、いや、見つかる前になんでこうも人生に苦労されてきた人が人生の最後の最後にそんな試練を与えられるものか、不思議でならなかったのである。

 

だって、人生はやはり簡単なものではなく、山もあれば谷もある。私の人生においてはいままでがほぼ谷という状況にほとほと嫌気がさしている次第であるが、この先の自分に認知症が待ち構えているとなると、なんともやりきれない思いになるからである。

 

現在、この認知症なるものの、科学的な症状分析はだいぶできているようなのだが、では、なぜその病気が発病するのか?そこに言及されているものはまだ存在していないと思う。故に医療分野などに素人である私が自分の想像の限りを尽くしてそれらについて考えてみたのであるが、この認知症における主な症状である、記憶の障害に私はその改善に向けてのポイントがある気がしている。

 

軽い認知症が進んだ母と話していると、この記憶の欠如の症状が正に記憶喪失の人のもと全く同じものであることに気づき、確かに人間の脳にある海馬における脳のごみと呼ばれるベータアミロイドの蓄積による記憶引き出しの能力の低下、それが現在の医療科学における認知症の症状への解析であるようなのだが、では、人の記憶そのものは一体どこにあるのか?そこに認知症を考える上に置いてのキーがあるように思えるのだ。

 

ここから話しはかなり飛ぶが、私は人が生きるという行為そのものが子供の頃から不思議でならなく、その理由や秘密において自分の人生を通してずっと考えて来た。結果、その秘密はやはり現代科学では到底及ばず、もちろん、心を科学する心理学においても同然で、その矛先はマッドサイエンティストチャネリングものなど、どの宗教にも属していない私は結果的にスピリチュアルなるものにその考えが行きつくこととなったのである。

 

その分野において人の記憶とは人間の頭にあるのではなく、人の集合意識と関係しているそうで、人はそのスピリチュアルな構造において、人が創造したインターネットの仕組み同様、私たちをその末端のコンピュータのような存在と仮定した場合、そのホストコンピュータは集合意識そのものにあり、そこに人類という種族の持つ、ありとあらゆる経験を通した情報を集積する場所があるらしいのだ。

 

では、なぜ人がそんなところに各人が日々アクセスしているかというと、そもそも、その人の集合意識なるものは、人の進化を司る領域らしく、集合意識に蓄積された人間が積み重ねて来たすべての記憶(経験、体験の蓄積)は、そこにアクセスした人々に平等に情報を提供し、種族全体の進化を即すことに機能しているそうなのだ。

 

では、なぜ人は進化しなければならないのか、その疑問についても言及せねばならんのだが、ここでは長くなるので別機会に書くとして、今回はまずはその人の集合意識における記憶、その秘密について書く。

 

話を元に戻そう。そう、人の集合意識における、人の記憶の話だ。

 

ようは、人の記憶というものは、人の頭そのものに蓄積されているものではなく、それら人の集合意識に集積されているらしく、私たちは日々そこへアクセスし、そこから自分の記憶を頭を通してダウンロードしているようなのだ。

 

私が思うに認知症を考える場合、ここに問題があるような気がしている。すなわち、自分の記憶を蓄積している集合意識に、自分の頭の中に起こった障害によりアクセスできずダウンロードできていない状態、そこに認知症という病状の本質があると仮想している。

 

では、この人の頭の中で起こっている障害とは、何か?

 

それは前述した現代医学での解析にあるように、人の記憶を司っていると考えられている脳の海馬という領域の、脳のごみと呼ばれるベータアミロイドの集積における海馬萎縮状態での、記憶引き出しの能力の低下、そういう説明であるが、それをスピリチュアルの領域での考えでは、我々それぞれの記憶を集積している人類の集合意識にアクセスできない、それは人の海馬の故障によるものなのかも知れないが、実は人間の脳の中にある視床下部に問題があると私は考えるのだ。

 

なぜならば、人のホルモンを司る機能を果たしていると考えられているこの視床下部であるが、スピリチュアルの領域でのこの部位に関する解答は、その人の記憶が集積している集合意識へのアンテナの役割を果たしているということなのである。

 

恐らくはこの考えは本当で、では、なぜ海馬ではなく、この視床下部の機能不全で記憶のダウンロードがしにくくなるかというと、人の根本を魂と呼ぶものであると仮定した上での話なのであるが、この魂というものは、その人を構成する根源的なもので、もちろん、目に等視えるものでもなく、人の精神機能の根幹をなすものと考えるのだが、この人の魂にはこれも輪廻転生があることを前提に書いているが、魂には魂が進化していく為に人生が繰り返される輪廻転生という機能があり、少し宗教的な話になってしまうのだが(何度も書くが、私は無神論者である)、魂は生まれる前に必ずブループリントと称する人生の課題を持って生まれ変わってくるようなのである。

 

このブループリントとは、その人の人生における課題、および、課題を収める為の人生の大体の設計図のことを呼ぶそうで、我らはそれらを持って生まれてくるようで、自分が前世よりよりよく進化する為に今世において我らは自分にそれら課題を作り、そして、その人生の大体の流れを決めて生まれ変わってくるようで、その人生を通して得た知識というか、記憶そのものを人の集合意識へ送り、且つ、より自分の魂の進化を促進すべく、いろんな人がそれぞれの人生で克ち得て来た知恵をその人類の集合意識からダウンロードしているそうで、どうやら、これらの過程における我らと集合意識を繋ぐパイプの詰まり、すなわち、人類が進化するために繋がっている、それら人類の集合意識と自分を繋ぐパイプが、自分が描いて来たブループリントから外れると、このパイプ自体に目詰まりを起こしてしまうようなのだ。

 

正式には、外れるとというか、自分の魂との対話を滞っているとと表現した方がいいかも知れない。

 

自分はなぜあの両親に生れ、そして、なぜこうした環境を選んで生れて来たか・・・

 

我々は日々こうして、自分のブループリントと今の自分の人生を照らし合わせ、その自分の根源である魂と対話しないといけないようなのである。

 

なぜなら、今の自分の人生をその自分が考えて来ただろう、ブループリントへ極力近づけることにより、より生きやすくするためだ。

 

なぜ、生きやすくなるかといえば、自分が課して来ただろう課題を収めることが出来やすくなるからである。

 

その為の、集集合意識へのアクセスであり、私はそこに認知症の原因があると考えるのだ。

 

つまりは、そのパイプの詰まりはこうだ(しゃれてる場合ではない・苦笑)。

 

人は自分のブループリントに即し人生を生き、そして、その自分に課して来た課題をクリアしさらに進化するために集合意識にアクセスし、自分の経験したことの記憶や人の記憶のやりとりをしているのだが、これらを使っていない場合、そのパイプが退化して使いにくくなってしまうようなのだ。

 

人間の体だけでなく、我々の住む地球上のシステムにおいて、使っていないとその機能が退化してしまうのは至極当たり前の話で、普段、歩くことをしない人の足の筋肉がそれを使わないが故に退化してしまうのと同じように、我々は我々の魂のある場所であろう集合意識への記憶のアクセスを滞ると、使っていないのでそこのパイプの目詰まりを起こしてしまうようなのだね。

 

それが私が考える、認知症になる最大の原因。

 

これも私の勝手な推測になのだが、一般の人において失礼に当たってしまうかも知れないが、自分自身の本質を見つめて生きている人は本当に少ないと思われ、人はその大体において日々の忙しさに追われ、自分の本質などにわざわざ時間をおいて向き合うことなどあまりしていないように思える。

 

それは人それぞれの深度があり、でも、自分が何の為に生まれて来たのか、まで、言及する人はあまり多くはないのではないかと思っているのは私だけかも知れないが、そうである場合、自分自身の本来である魂とのアクセスをしていない、そこに熱心にアプローチをかけていないということは、すなわち、集合意識をあまり活用していないことになり、その結果として、そこへのパイプが目詰まりを起こしてしまうのである。

 

その人の記憶が集積している集合意識へのパイプが詰まってしまえば、そこに収めていた、あるいはいる自分の記憶を引き出すことはしにくくなる。

 

私が考える認知症における原因とはこういうことを考えているのである。

 

さて、これについて、皆さんはどうお考えだろうか?

 

それらについても是非聞いてみたいが、今日のところはこれにて当ブログを終了したいと思う。

 

一気に書き過ぎて疲れてしまったのだ。

 

私はこれ以外にnoteでも少しブログっぽいものを書いているが、今日書いた内容をもう少し説明するような内容にもなっているので、興味がある方は、是非、そちらも読んでみて欲しいと思う。

 

note.com

 

 

今後、より詳しく、且つ、自分の想うところについて書いていきたいと思っているので、もしこんな私のつたない文章でもお付き合い頂ける方はどうぞ、私のブログへお寄りください。

 

今日は最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。

 

今後とも、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

 

生きるを考える人

 

KATSUKENより