認知症の改善、および、その対策について
さて、前回の記念すべき初ブログ投稿アクセス数がゼロであるという、まったくもってモチベーションゼロの状態で、この続きを書く。大体、このブログの目的は、もちろん、たくさんの人に読んで欲しいから書いているわけであるが、それ以前に自分の中のものを外に放出したいという思いがあったからであり、すなわち、それは他人の評価を目的としたものではないわけであるから、引き続き、自分で得た知識や知恵、それらのものを放出し続けていきたいと思う。
前回のテーマは認知症であった。認知症に至るというかそのメカニズムについて書いてみた。でも、少し早急に書き過ぎたように思うので、今回はそれについての補足みたいなものとそうならない為の対策について書いてみたいと思う。
まず、前回、認知症とは自分の人生に向き合わないで来た人がなりがちであることについてはその理由を言及してみた。人には生まれる前に自分で決めて来たと言われているブループリントなる自分の人生の青写真を持って生まれてきており、そこに忠実に生きる為、人生に様々なものが用意されている、厳密には自分で用意していると書いた方がいいが、それらについてはまた別の機会に書くとして、自分の記憶というものが、人類の集合意識に集積され、人々はそこを通して人類のそれぞれが獲得した記憶である知恵を獲得し、進化して来た。そう前回は書いたと思う。その構造の理由は、人々がよりよく、さらには早く進化する為。だって、みんなで情報の共有化ができれば、全体の進歩が加速するでしょう。それは実際の会社などにおける組織運営においても現在利用されているものであるが、人類はそのような領域において、既にそれらの構造において記憶のやり取りをしているようなのだ。
そして、この集合意識とのやりとりをするパイプが詰まるとその自分の記憶が集積している集合意識にアクセスしづらくなり、自分の記憶が引き出しにくくなってくる。それが認知症の最大の原因なのではと私ならではの認知症の構造を説明してみたのだが、このパイプが詰まるという表現は、別の書き方をすれば人間の体に備え付けられている機能というものは、人の筋肉と同様、使わないと退化してしまう方向にあり、それは前述した集合意識にアクセスする力においても、それら筋肉が退化してしまう理由と同じことが言えるのではないかと私は考えている。
なんでもそうなのだが、我らが生きるこの物質化した世界においては、あらゆるものは使わなければ、生き残る為に自らを更新し続けなければ退化する方向のルールを持たされて存在しており、使わなければ退化する。荒廃する。これらは私たちの住む、この三次元の世界では当たり前の話である。
だから、自分の描いて来たブループリントを意識しない生き方を続けていれば、それらが必要ないということでというか、そこを強く意識して生きていなければ、集合意識へのアクセスする能力が退化してしまうのではないかと私は考えるのである。
その結果として、頭の中に、脳内のゴミと呼ばれるアミロイドベータというたんぱく質が溜まり、人の海馬が委縮し、自分の記憶を引き出しにくくさせる・・・
病気にはなんでもなる理由があると聞く。
それは現代医療の世界ではなく、スピリチュアルな領域での話。
スピリチュアルと表現すると、なんか軽い感じがしてしまう気がするので、私は敢えて霊の世界と表現を換えるが、私たちが元々いた領域である、目に視えない霊的な世界がそもそもの元であり、その表現の場としてのこの三次元という観念が存在する。
原因があり、結果がある。これは私たちの住む、この三次元の法則である。そこには時間が介在しているが、どんな結果であれ、その元としての原因がなければ、それに至る未来は存在しない。ここも厳密にいうと、パラレルワールドの概念ではないが、無限大に可能性というのもは存在するのだが、私たちの体において発症される病気というものについては、そのすべてにおいて原因があるようなのである。それら霊的世界の観点でお話すると。
すなわち、霊的観点から考える人の病というものは、そもそもは自分のその霊的領域である、魂的な部分からのメッセージが体に顕れるものとして考えられているようなのだ。
何故か?
自分のブループリントに自分の人生を軌道修正させる為である。
何故、軌道修正が必要か?
自分が生れて来た理由としての課題を収める為である。
では、何故、それら課題を収める必要があるのか?
人が生れて来た理由のそもそもが、それら人それぞれ、自ら考えて来た自分の人生のブループリントを達成する為に生まれてきているからだそうなのだ。
だから、私たちの体は、というか、厳密には自分本来である魂が、自分が描いて来た人生はそっちじゃないですよと、自分の人生を考え直す為に、自らの体を通し、病というもので人に考えなおす機会を自らに与えているようなのである。
ということは、認知症とは自分の人生を考え直す為に自らの魂が自分に与えた機会ということになるが、はて、そこはどうなのだろうか。
私はそれら自分の描いて来たブループリントを無視し続けて来た人の最終的な結果なのだと考えている。
あくまでも最終的な結果なのだ。だからというか、発症してしまえば、もうそれら集合意識にアクセスする能力が完全に退化してしまっているので、その機能を再度獲得することはあまりできないように思う。何故なら、それら発病してしまった人たちにおいては、自分達に起きているその痴呆症の原因を究明し、自ら打破しようという意志が希薄になるからである。
たぶん、これも完全に私の憶測に過ぎないのだが、自らの軽い認知症を発症した母と話場面において思うのだが、いや、なんでもそうかも知れないが、足を骨折した人がまた歩く為にそれまで骨が復活するまでに退化して使えなくなった自らの筋肉をリハビリをすることにより再度歩けるようになるのと一緒で、病というものは、自ら治そうという人の意志がなければ癒えることはできないのではないかと思う。
ここにも、実は霊的世界の秘密があるのであるが、それも長くなるのでまた別の機会に書くとして、前述した私が考える認知症の原因を思えば、すぐにその対応策が見つかると思う。
ようは、常に自分のブループリントを意識した生き方をすればいいのである。
自分自身、すなわち、自分の魂との対話が必要なのである。
お前は、何の為に生まれて来たのかと・・・。
原因がなければ、私たちはこうして生まれてきていないのである。
なんらかの理由、すなわち、ブループリントがあったから、わざわざ飛び級する為にこの三次元の世界に生れることを許されてきたのである。
この三次元における飛び級という概念においても長くなるのでまた別の機会に書くが、だかこそ、私たちはこれら自分達に課して来た課題に気づかなければいけないのだ。
でも、実はこれら自分が課して来た課題、ブループリントを思い出すという行為は、実は以前より生きやすくなるという効能がある。
何故なら、すべてにおける障害というのは、前述した病という部分において言及したように、自らに考える機会を与える為に発生しており、そう考えれば、障害の多い人生というのは、私の経験して来た人生同様(だから、こういうものを考えられるまでに至ったのだが・苦笑)自らの描いて来たブループリントから外れてしまっている状態の人ほど、自らの人生にそれら障害を発生しやすくしてしまう傾向があるように思うのだ。
という観点から考えると、人は自らが描いて来たブループリントに忠実に生きれば、生きることにおいて障害が少なくなり、生きやすくなる、というのは私の浅はかな思い付きであろうか・・・?
でも、認知症対策においては、ここに注目して欲しいのだ。
より自分を生きやすくするためにこそ、自分の生き方を省みる機会を作って欲しいと。
自らの体を通した病というものに冒される前に。
ということで、いつも、竜頭蛇尾にはなってしまうが、そろそろ疲れてしまったので、今日のところはこれくらいにしておく。
やはり、書くプロではないので、集中するにもまだ力が必要なのだ。
能力はあっても、それを活かす筋肉というか、力、またはそれらを有用に使えるコツが必要なのだ。
だから、今日のところはこれにて終了する。
また、次の機会は、徒然なるままに。
人生、自分の想うようなままに・・・